仙臺堆朱の特色

仙台地方には、古くから漆器が作られていたが、伊達藩になってから、藩は漆の栽培に力を入れて、元和六年には、漆木植付に関する条例を出し、毎年住民一人につき漆の木十五本を植える事を命じた。漆の木が育って漆が取れるようになると、塗りが当然盛んになり、藩には御用塗師が十二名置かれる様になる。藩が塗りに力を入れると、町方でも職人の塗りが自然に盛んになっていった。ところが、時代が藩から明治に変わり、藩がなくなるとこの塗りもまた姿を消した。仙台堆朱は、その塗りの滅びた後、明治の末期に川崎栄之丞がその基盤を作った。川崎氏は、新潟県の村上から、刑務所に彫刻を教えに来たのが始まりで、仙台市内の向山に東華堆朱を設立した。 この手法は、木の型にまず山水等の中国風の景色を彫り、その型に餅米と木屑と漆を混ぜて圧搾して押し付けて、木型と同じ物を大量に木地を作り、上に朱で塗りを施すと出来上がりとなるが、このプレスでは、凹型を取り凸型をプレスする訳だが、型から外し1週間置いて、さらに、バリ・面取りをしてから、塗りをする為に日数がかかる川崎氏は、合津から塗師・木地屋を呼び寄せて、さらに、大量生産をしたが、東華堆朱から別れた、関川平輔も永楽堆朱を始めたが安く販売をする為に、品質が低下していき、東華堆朱も永楽堆朱も姿を消す事となった。その中で、木田氏が大正堆朱を作り、細々と製作していた。今から数十年前に、蒔絵師:南忠が東華堆朱の川崎氏の遺志を受け継ぎ、国立工業指導所所長安部郁二氏と、その他の堆朱製作所との話で仙台堆朱として名を統一させた。 仙台堆朱の最大の特長は、堆朱に蒔絵を施すことがある。南氏が蒔絵師であり、その蒔絵の技法を堆朱の中に取り入れ、これまでに見ない技法を作り出した。

説明

  • 元和六年 1620年
  • 川崎栄之丞 村上堆朱を製作していた
  • バリ プレス型と型の間からもれた材料
  • 面取り バリを取り面を均一にすること
  • 大正堆朱 宮城堆朱とも言われていた
  • 南 忠 蒔絵師松田権六の弟子
  • 安部 郁二

仙臺堆朱の作品